令和8年4月20日、原告である阿武隈会会員及び代理人の弁護団員により、最高裁判所への被害実態説明活動、及び、要請活動が行われました。
【当日の状況】
阿武隈会会員3名、弁護団員4名が出席し、最高裁判所内会議室において、阿武隈会会員3名各自作成の被害実態書面及び弁護団作成の意見書を提出しました。
第1 被害実態について、原告番号3-①は、次のとおり述べました。
私は、福島原発事故当時に福島県田村市都路町に居住していましたが、東電福島第一原発事故を受けて、苦渋の決断で石川県へ避難しました。
1.原発事故で喪失した生活
(1)穏やかな<国富>ともいえる生活だった
私は、東京での昼夜を問わないともいえる厳しいシステムエンジニアの生活に疑問を抱き、もっと穏やかな生活をしたいと、54歳で早期退職し、福島県都路村 (現田村市都路町)に移り住み、「自然農」による自給自足を目指した生活をしていました。「自然農」は、農薬はもちろん有機肥料すらも使わず、多くの昆虫や生物が共存し命が賑わう畑であり、最も持続可能な農法です。自然の営みに合わせた生活の心地よさは、何物にも代えがたいものでした。
1年分以上の米や大豆など食糧の備蓄・自給、薪ストーブ・薪風呂・太陽熱温水器、等のエネルギー自給の生活でした。「自然環境と共にある、災害に最も強い生活、避難の必要のない生活」だと妻と話し合っていたものです。
日常生活では、エゾセミやアゲハ蝶の玄関前での羽化、ベランダ前の胡桃に来るリスの可愛らしさと縄張り争いの激しさ、満天の星に驚き、天の川が夜空を横切り、冬の朝には梢の氷が解けきらきらと宝石に変身し、足元では新雪に続く兎の足跡、自然は見ているだけでも飽きません。その一つ一つを挙げていたら切りがありません。
(2)都路村(現田村市都路町)に全生活が
都路村では、集落の方々に温かく迎え入れられました。例えば①田植えの後の集落挙げての慰労の温泉日帰り旅行<早苗饗(さなぶり)>に誘われ、②村総出の朝5時からの道路の草刈り・川の清掃に参加し、③葬式で土葬の穴掘りなど民話の如き世界を経験し、④村の生活習慣・生活の知恵を教えていただく等、本当に多くのことを学びました。
村や地域の為にできることを積極的に行いました。例えば①一般廃棄物最終処分場建設計画に反対して村議会議員になり2年後に計画凍結を実現し1期で退き、②地域起こし活動「あぶくまロマンティック街道」の企画実行に加わり、③中小企業診断士(在職中に資格取得)として福島県内の福祉施設の経営を第2次産業の下請けから脱し、福祉と農業を結び付け新業態への移行を提言実行支援し、④日本自然保護協会指導員の資格を得て、村の小学生・関東地方の修学旅行の自然観察会に指導員として参画、⑤福島県市町村対抗駅伝大会コーチなどです。
この間は16年でしたが本当に活き活き楽しい充実した時間でした。私たち夫婦の全生活が都路村と共にありました。金額には換算できない程の心豊かな生活でした。
2.原発事故の悲惨な実態
(1) 「原子力緊急事態宣言」継続中
しかし福島原発事故が起きて私たちは無念の思いで避難しました。事故直後に発せられた「原子力緊急事態宣言」が未だに福島県に発令されており、福島県に限って被ばく許容線量が年間20ミリシーベルトであり他地域の20倍に緩められたままです。内閣官房参与の小佐古敏荘東大大学院教授が「学者の良心としてこのような線量を子供たちに~~」と涙ながらに述べ辞任した線量が現在の福島の基準値になってしまい、ダブルスタンダードがまかり通っています。
2011年9月末に我が家の地域の避難指示が解除になりました。2011年12月に野田首相(当時)は冷温停止状態になったと宣言しました。しかし我が家から田畑への生活道の土壌汚染は100万ベクレル/㎡を超えています。チェルノブイリの避難義務ゾーンの2倍です。生活圏にホットスポットがあるのではないかと不安がよぎります。今までのように山桑の実ジャム、山栗の渋皮煮、山菜の天ぷら、等々食べる訳にはいきません。新鮮な野菜・無農薬の野菜を友に送ることができなくなりました。原発事故で豊かな生活を奪われました。心弾んだ<国富>の生活に戻ることができません。楽しくありません。
(2)「風評加害者」と言われ
復興大臣に「自主避難は自己責任」と言われ、知人からは「あなた方が帰って来ないから風評がなくならないのよ」と、言葉のつぶてが飛んできて突き刺さります。「風評加害者」と環境大臣に罵られました。仮に帰還したとしても20ミリシーベルトを受け入れるか否かで、今までのように心おきなく集落行事に参加できるか分かりません。原発事故は見える被害ばかりか、見えない大きなダメージ、分断を強いています。
原発事故で喪ったものは金額に表すことできないほどの被害を与えました。しかし敢えて百歩譲り損害を金額に換算して本訴訟に臨みました。原判決(控訴審)は政府判断の2011年12月「冷温停止」、2011年9月の「避難解除」を根拠に、事故前の豊かな生活と被災地の実態を無視した判決を下しました。原判決を破棄し正当な賠償を求めます。
70年前、中学生の時に立法・行政・司法の3権分立を学びました。さらに憲法第76条3項 には「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と記されています。
第2 被害実態について、原告番号20-①は、次のとおり述べました。
福島原発事故被害の実際は、会津地方の観光地とは異なり、人の暮らしに守られて来た阿武隈山地の豊かな里山自然にその特徴を持っています。その地域の自然が放射能拡散によって土壌、山林、田畑など人が自然を利用し、その日の糧を得て来た全てが駄目になりました。
全国的にも自然豊かなところでは、過疎化が進んでいますが、私たちが住んでいた所もそうです。その自然は、人が手を入れないと瞬く間に荒れ放題となり、人の暮らしが成り立たなくなります。その過疎地は、限界集落として今まで以上に人が住まなくなっているのです。
私たち夫婦は、穏やかな老後の日々を自然の暮らしに求めて、被災地の田村郡都路村(当時)に居を構え、二人の退職を待って移住の準備をしていました。原発事故が惹起されるまでは、埼玉と都路に休日、祝祭日等を使って休みなく通いつめでした。そこは昔、暮らしの糧を得るためのマキや炭を採取した薪炭林と言うところです。そのことは、「都路村史」が編纂され、当時の写真と共に自然の暮らしぶりが残っています。
自然のことを話してもなかなか理解して頂くのは、難しいのですが、敷地山林を下から50㎝位のところで一度間伐すると伐られた切り株から再び枝〃が成長し四方に広がり込み合うことで光を遮ります。林床の土壌にはササが繁茂して人の進入を寄せ付けないヤブ化となります。ですからササの刈込みや木々を間引き、剪定が必要になります。
そしてマキや炭、シイタケ原木などに利用する為に幹を太くまっすぐな成長を促しますが、およそ15年から20年毎に伐採を繰り返します。成長をした木々は既に根がしっかりと広がっており間伐後の成長は早い。しかし放置しておくと100年ほどの寿命で枯れます。
阿武隈山地は、全国のシイタケ原木の半数近くを産出しており、その原木は地元の山の所有者からの協力を得ていたが、既に壊滅状態です。被害にあった私たちの敷地の7000坪の山林もまた同様です。
12年を掛けた薪炭林の整備の結果、実を落とすことのなかった枝々からは大量のドングリや山野草が花を咲かせ山菜やキノコ類が敷地に広がります。
併せて、近辺2か所の直売所からは、安く手に入る採れたての新鮮野菜が食卓に上がります。冷暖房のエアコンは一切利用することなく、夏場は窓を開けるだけで冷風が入り込み、寒冷地の都路にあってもマキストーブや囲炉裏の採暖は母屋全体を温め、配管の凍結から守り、調理に有効利用していました。その燃料は全て、敷地のマキの調達で済むことでした。
今日、全国的にクマの出没が世間の耳目を集めていますが、敷地の薪炭林の手入れは、大量のドングリを9月に落とすようになりました。同様に、全国の放置された落葉広葉樹林が手を付けられずにいますが、これらの山の手入れは、野生の生き物たちにとっての貴重な食料となり、人と大型動物との境界線を作ることになるのです。
人が山を利用し、炭やマキを採取することで、開け放たれた山林は、野生の動植物の生育・生息の多様性をもたらし、自然と人との共存を生み出す一つの例です。
自然の利用が如何に人の暮らしの利便性をもたらすか、身を以って教えてくれた都路での自然との暮らしでした。しかし、原発事故は、一瞬にしてこれまでの苦労を全て断ち切り絶望のどん底に陥れました。
2018年、288号線(都路街道)を車で走らせると山々の景観は、「はげ山」が多く見受けられました。汚染されシイタケ原木の利用価値が失われ、山々の木を森林組合は残らず伐り倒し、そこにコナラの実生苗の植樹を進められていたのです。
汚染された土壌や木々が再び利用されるようになるまでには、100年は掛かるだろうとの組合長の話でした。その長い年月を住民は、何をすればよいのか。何をして食べて行けと言うのでしょうか。
加えて、福島原発が建設された当時、都路村では農林業に携わる地域の多くの住民が給金の良い原発作業員として浜通りに働きに出ていました。当時の村長は、本来自然との暮らしに従事して来た農林業者の、特に農業者が仕事を投げ出して、いざという時に自然の仕事に戻れるのかと憂いていることを、「都路村史」が朝日新聞に載っていたことを紹介しています。
原発は建設された当初から豊かな自然から人の生業を奪い、それでも飽き足らず取り返しのつかない自然そのものを駄目にしました。更に事故後は、地元住民の自然との暮らしを奪っておいてその後始末に原発作業員として駆り立てたのです。このことのどこに原発の環境に良いクリーンなイメージがあるのでしょうか。
最高裁裁判官の皆様には、思い出して頂きたいのです。原発事故が如何に危険なものであるかと言うことを。そして一度危険が現出すれば人の手に負えないものであり、地震の活動期に入った地震大国が再び福島原発の轍を踏まない保証がないことを。原発事故が起こった当時、避難生活を余儀なくされていた恐怖を今も思い出します。
最高裁裁判官の皆様には、後世に恥ずかしくない判決を出して頂くことを切に願わずにはおれません。よろしくお願いする次第です。
第3 被害実態について、原告番号23は、次のとおり述べました。
事故前まで私は、自然と一体となった暮らしをするという長年の夢を叶える為に、やっと見つけた福島の、自然豊かな土地を財産を叩いて買い、開墾し、伐った木で小屋を作るなど徐々に森を永住出来る様に変えて行っていました。突然、全く想定していなかった、国が「絶対に起こらない」と言っていた原発事故が起こり、私の土地には―speediの計測によれば―600㏃/kgを超える放射性物質が降り積もり、本来0.03~0.04μ㏜/h程度の放射線量が、事故直後の一時は推定で数百μ㏜/hはあろう放射線量になってしまいました。「原発事故は絶対に起こらない」と嘘を言っていた国は、今度は「その程度の放射能なら問題ない」と言い出しました。しかし、原発から遠くない地域では小児甲状腺ガンが多発し、不可解な死を遂げた原発・除染作業員の方のニュースも目にしました。
国は私の場所を避難指示準備区域とし、基本問題無いとしましたが、もし、事故直後から事故前と同様の生活・活動をしていたら、私は数日で原発作業員の年間基準を超える被曝をしていた可能性があるのです。問題無いことはないでしょう。
事故から2~3年後であっても1~2μ㏜/hと、自然線量の数十倍の放射線量が続き、植物も、特に事故から3か月後などは、長年様々な自然を見て来た私がそれまで一度も見たことが無かった、おかしな形になっているものが幾つも目に飛び込んで来ました。放射能以外では説明のつかないものばかりです。こんな恐ろしい事実まで見た後では国が何と言おうと、事故前の様にここで寝泊まりして作業を続けるなどとてもできません。苦心して作った小屋などは全て朽ちてしまいました。この様な所では夢を叶える地にはなり得ません。
放射線は自然状態でも細胞を一定量傷つけますが、自然の50倍の放射線ならそれだけ細胞やDNAを傷つける訳です。そうなれば仮に損傷細胞が修復されたとしても、体の機能をそんな余計なことに使う訳ですから、ガン駆逐など本来のことが疎かになるのは明らかでしょう。後で、何年も先にその結果が現れることは十分に考えられるのです。なぜそんなことを、そうなる可能性があることを我慢しなければならないのでしょうか。汲むべき事情の無い者達の為に。高裁は「我慢しろ」と同義の判決を出しました。最低限の人権をも無視していませんか。全く証明にならない・被告の利益の為以外の何物でもない偏った資料と、根拠の無い論理で。「被害無し」など。「多くの人が戻って暮らしている。だから問題無い」? 他に選択肢を持たせず事実上強制しておいて、それはおかしいでしょう。
より良い自然を求めて福島の地を取得した私が、自然とは真逆の放射性物質が大量に堆積した地を拒絶するのは当然ではないですか。なぜ、人が拒絶することを事実上強制するのですか。そんな権限が被告の、否、誰のどこにあるのですか。
法で定められた年1m㏜どころか、放射線管理区域・3ヶ月1.3m㏜を超える線量下で暮らし、活動することを事実上強制する。法を破ることの強要ではないですか。労災で白血病認定される5m㏜も完全に無視していますし、これが法の番人のすることでしょうか。これが通るなら、この国には人権も正義も、法治主義も、人道性も公平性も無い、国自身が日ごろ批判している独裁国と何ら変わりが無いではないですか。せめて最高裁には、訴えている個人の権利に十分鑑み、その尊厳を守る判断をして頂きたいと切に願います。
このように、原告から、被害実態の説明は、原発事故以前の都路の自然とそこでの生活の素晴らしさ、失われたものの大切さを伝えました。
最後に、代理人から、本件の重要性と、これまでになかった争点への判断が必要になるところから、最高裁判所大法廷への回付と、担当調査官との面談を要請するという意見書の趣旨説明をしました。
当弁護団は、今後も、本件原発事故について責任の所在と被害の実態を明らかにし、適切な賠償が行われるよう、鋭意活動を続けていきます。
よろしくお願いいたします。
【本件についての問合せ先】
原発被災者弁護団阿武隈会担当 弁護士 林 浩靖(03-6912-9271)
